みたにっき@はてな

三谷純のブログ

多くの面で私の範として生きてこられた父が2月3日、出張先で亡くなりました。63歳でした。
宿泊先のビジネスホテルで就寝中に起きた、くも膜下出血が死因でした。本当に突然の出来事でした。
何の前触れもなく、家族の誰ひとりとして、まさか父が急逝するとは思ってもいませんでした。

父の訃報を受け、急ぎ病院に駆け付けたものの、すでに体は冷たく、死に目に会うこともかないませんでした。
ベッドで就寝中の姿そのままで発見され、苦しんだ様子は無かったということが、せめてもの救いだと思います。
その後は遺体の搬送や葬儀の施主としての通夜、葬儀に関する打ち合わせなどに追われ、生前の父に思いを馳せる余裕もなく、あっという間に時間が過ぎてしまいました。
今は無事に葬儀が終わり、少し落ち着く時間ができたので、父のことについて書きたいと思います。
父の死についての内容をブログに書くことはためらわれましたが、父は私のブログを読むのをいつも楽しみにしており、父のブラウザの「お気に入り」には、ここのブログが登録されていました。
ここに父のことを書くことで、少しでも父が喜んでくれるような気がします。

父は満州の地に生まれ、両親の大変な苦労によって日本の地に戻り、そして戦後の間もない混乱期を、苦労とともに生きてきたそうです。
私から見た父は、まじめで正義感が強く、自分の理想に向かって一途な人でした。
職場ではエンジニアとしての仕事に携わり、まさに技術者として走り続けた生涯でした。
仕事の様子を話しているときの父は、いつも楽しそうで、そして誇らしげでした。
モノづくりが好きで家庭でもソファーや机を自分で作り、犬小屋もデザインに凝ったものを作ったり、自分で設計した模型を作るのも好きでした。
囲碁が強く、カラオケが好きで、絵画が得意で文才があり、多岐にわたる能力に秀でた人でした。
私からすればまさに「かっこいい父親像」でした。

父は私が小学校1年の時にパソコンを買い与えてくれ、多くを教えてくれました。まだ小学生の時に数値積分アルゴリズムを教わったりしました。当時はほとんど理解できなかったのですが、今思えば、小学生相手にずいぶん無茶なことを教えてくれたものです。
その後、父の単身赴任でしばらく疎遠になることがありましたが、私が大学受験に合格したことを心から祝福してくれ、そして私の結婚式では涙を流し、私が現在の職に就いた時も心から喜んでくれました。
思えば、私は父にとって誇りに思える息子になりたい、と思って生きてきたような気がします。
最近では、私に仕事の具体的な話をしてくれ、「この場合、純はどう思うか?」と問われることがたまにありました。私も一人前と認められたような気がして嬉しかったものです。
つくばに移ってから恵まれた私の娘の姿に相好を崩す父の顔を見ると、ようやく親孝行ができたような気がしました。

父は60歳で職場を退職後、現在に至るまでの間は技術顧問という立場で仕事に携わり続けていました。
仕事はとても楽しかったらしく、新しいアイデアを実現すべく、あちこち忙しそうに帆走していました。
この春からは、技術系の雑誌での記事の連載も予定されており「純に原稿チェックをお願いするよ。」と言って、第一回目の記事をメールで送ってくれたのが、つい先日のことでした。
まだまだ、やりたい仕事も多く残っていたようで、今の時点で人生を終えることになったことは、とても無念であっただろうと思います。

でも、父の子供たちは、父の背中を見て成長し、今では立派な大人になっています。
私は父の生き方を手本に、これからも道をはずれることなく、まっすぐに生きていきたいと思っています。
父は短くも太い、充実した人生を生きてきたと信じています。
一人残された母のことを父は心配していると思いますが、子供たちで支えあっていきます。

通夜における施主の挨拶では、父が育てた長男として恥ずかしくない挨拶をしたいと思い、あらかじめ渡されていた定形文ではなく、ここに書いたような内容を喋りました。

本日に無事に終えた葬儀には、大変多くの方に参列していただき、父の交流の広さに改めて驚かされました。
この場を借りて、ご参列いただいた皆様、また弔電をいただきました皆様にお礼申し上げます。
また、仕事の途中での父の死によって、ご迷惑をおかけすることになる方も多くいらっしゃると思います。父に代わってお詫び申し上げます。

最後になって恐縮ですが、
私の職場では、まさに修士論文審査という大事な時期での忌引きとなり、多くの先生方および学生の皆さんに迷惑をおかけしました。ここに深くお詫び申し上げます。