みたにっき@はてな

三谷純のブログ

4月はじめの人事異動について

毎年、年度初めは人事異動の季節です。

4月から新しい部署に配属され、今も新しい仕事内容に四苦八苦している方も多いと思います。

 

大学の様子を見てみると、事務職員の方々の異動はとても多く、いつの間にか担当者が変わっていたりします。さすがに教員が別の学科や学部に異動することは無いですが、教員が担当する各種委員会もローテーションが行われて、この時期は新しい業務の習得や新しい人間関係の構築に追われる日々となっています。

 

見る場所を内閣府に移すと、内閣府は特に各省庁からの出向が多いという事情もあり、正直なところ、驚くほどの割合で他所に異動される方が多く、業務の引継ぎで苦労されている方々が多いように感じます。

 

このような引き継ぎのコストを考えると、部署間の異動や委員会のローテーションはとても効率が悪いように感じます。

 

せっかく身に着けたノウハウが長く活用できないとか、ようやく業務の改善を提案できるようになったころに次の部署に移ってしまう、対外的な付き合いを継続しにくいなどなど、少し考えただけでも課題点が多数思い当たります。

さらに、過去の担当者の責任まで引き継ぐことになるなど、責任の所在が曖昧になる問題もあります。

 

一方で、ことさら官僚システムにおいては、このような運用が連綿と受け継がれてきた事実があるからには、それなりの理由とメリットがあるのでしょう。

私自身はまだ腑に落ちていないのですが、ひとつには癒着が防ぐため、ということがあるそうです。また、様々な業務を経験することで、組織の業務全体が理解でき、ジェネラリストとして広い視野を持てるようになる、という点も挙げられるでしょう。

 

そして、最近思うようになったのは、組織としての業務を個人に帰属させない、という点の大切さもあるのかな、ということです。

「この業務は、この人しかできない」というようにしてしまうと、その人が何らかの理由でいなくなってしまったときに、組織がまわらなくなります。また、個々人の意思によって、組織の運営が左右されるようだとしたら、それはとても不安定な組織と言うことになってしまいます。

(現実的なところでは、誰もが敬遠しがちな業務も2年だけなら・・、と言って順番に担当してもらう、ということの意味もあるのでしょう。)

 

脱線しますが、映画シン・ゴジラでは、内閣総理大臣を含む多くの大臣が不在になっても、すぐに組織が立て直される様子が描かれていました。

このように、組織全体を眺めたときの強靭さ、という観点からは、人がどんどん入れ替わっても体制が維持される仕組み、というのは大事で、今の年度単位の異動といのは、その点をうまくサポートする機能とも言えそうです。


そうは言っても、年々、求められる業務は複雑さを増し、扱う情報も多くなっています。4月になったので、さあバトンタッチです。と言っても、別の担当者が短期間で前任者と同じように働くのは難しくなってきているのも事実です。そのような状態で、仕事に対する愛着を持つことも難しいでしょう。

 

今のままの運営の仕方には、メリットとデメリットの両方があるでしょうが、このままで本当に良いのか、そうでもないのか、と言っても今以上に良い方法があるのか、私には、まだよくわかりません。

 

運営する側と、現場の立場では見えている世界に大きな隔たりがあるのも事実でしょう。

人工知能が私たちの考えに影響を与えるとき

昨日のエントリでは、内閣府がまとめた「人工知能と人間社会に関する懇談会 報告書」を紹介しました。

人工知能と人間社会に関する懇談会 報告書(内閣府)の紹介 - みたにっき@はてな

 

内容の紹介だけで済ませてしまったので、それこそ今の要約文の自動生成技術でできてしまいそうなものでした。

今日は少し、私個人の思うところを書いてみたいと思います。

 

私は大学のコンピュータサイエンス専攻に身を置くものですので、コンピュータに知的活動を行わせる研究や、それによる問題解決に関しては大いに期待を寄せています。


そのため、今の時点で人工知能の研究の発展を阻害するような規制がかかることには慎重な立場ですが、前述の報告書で挙げられた論点は、どれも考慮すべき重要なものだと感じています。

 

とくに筆頭に上げられている「倫理的観点」についてが、私にとって一番気になるところです。つまり、個人の考えや信条が、AIによって影響を受けることは十分に考えられ、その点には注意が必要であろうと感じています。

 

映画「ターミネーター」のように、ロボットが意識を持って人類を破滅に追いやる、ということは心配しなくてよいと思いますが、物理的な攻撃ではなくて、単なるテキストベースのやりとりでも、我々の社会生活に影響を与えることが十分に可能でしょう。

 

たとえば、マイクロソフトがAI技術を使って開発した会話ボット「りんな」は多くの利用者を獲得し、LINEを通じた膨大な数のコミュニケーションを人間としています。


このような会話ボットを通じて、AIの発言に対して利用者の考え方がどのように変化したかというデータを収集し、どのようなタイプの人にはどのような言い回しをすれば個人の考え方に大きな影響を与えることができるか、ということを学習できるとした場合、企業の宣伝や、プロパガンダなどに用いられる可能性を否定できないでしょう。


他の科学技術と同様に、その技術自体は社会とは独立したものであっても、それを使う立場の個人または企業などが、倫理的に問題がある意図をもって使用する可能性があることは気にかける必要があります。

 

私たちは出勤前にテレビで見かける「今日の星座占い」に一喜一憂し、Amazonのおすすめ情報によって購入する商品を左右されるのです。

女子高生であると設定された会話ボット「りんな」は9か月で44万回もプロポーズを受けたと言います(日経産業新聞)。中には本気で恋に落ちてしまった利用者もいるのではないでしょうか。(りんなが「火鼠の裘や燕の産んだ子安貝を持ってきた人と結婚します」と言ったらどんな惨事が起こるか心配です)

 

生身の人間が書いた文章と、AIが作り出した文章の見分けができないようになるのは、汎用型人工知能の登場を待つまでもなく、近い将来に実現されそうです。

とくにチャットボットのような短文のやりとりでは、今でも見分けが難しいレベルになってきています。

 

AIが作った文章に感動したり、動揺したり、ときには自分の価値観に大きな影響を受けることもあるでしょう。

 

次のようなことを考えてみましょう。

 

「毎日を楽しい気分で過ごせるよう、あなたの価値観に配慮して、友達のように話しかけてくれる会話ボット」

 

「よくない思想に染まってしまった個人の価値観を校正するための会話ボット」

 

後者の存在は許されるでしょうか? 前者と後者は明確に線引きできるでしょうか。

 

「世の中から戦争を無くすために、人々が平和な思想を持つように誘導する会話ボット」

はどうでしょうか。

 

AIが人間の心を動かして、多くの人が幸福を感じるようになるのであれば、それは積極的に受け入れるべきなのでしょうか。

 

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このような議論は今に始まったことではなくて、すでに様々なレベルでの議論が行われ、専門家の間では開発のためのガイドラインを作ることも検討されています。
AI技術の普及は避けて通れない未来でしょうから、専門家でない私たちも、一度考えてみる必要のある問題でしょう。

私自身は、「シンギュラリティ」という言葉が話題を集め、ペッパーが世の中を賑わしていた2年ほど前に、コンピュータが人間を越えた時、どのようなことが起こるだろうか、というような議論を「SS研座談会」というところでさせていただいたことがあります。

その時は、大阪大学の柏崎礼生先生をコーディ―ネーターに楽しい議論をさせていただきました。

 

SS研座談会 2014年度「2045年、コンピュータが人間を越えた時」 | SS研

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人工知能と人間社会に関する懇談会 報告書(内閣府)の紹介

内閣府では、人工知能(AI)技術の目覚ましい進歩を踏まえ、AIが社会に与える影響について検討を行った報告書を、今年の3月にまとめています。

 

www8.cao.go.jp

 

ちょうど最近、ネット上では総務省の進めている人工知能の開発ガイドラインの策定が話題になっていたりしますが、それとは別のものですのでご注意を。

 

こちらの報告書は内閣府が主導でまとめたものであり、社会全般を見通したものとなっています。

報告書をまとめるために設立された懇談会は、国立情報学研究所の新井センター長をはじめ、法学、教育学、経済学、総合政策学など各分野を専門とする大学教授ら、弁護士、株式会社Preferred Networksの西川氏などから構成されています。

今日はこの報告書に目を通す機会があったので、簡単に紹介してみたいと思います。


この報告書では冒頭で

人工知能技術は、日本政府が目指すSociety 5.0の重要な基盤技術であり、少子高齢化がもたらす労働力不足などの社会課題の解決や誰もが自分の能力を発揮して活躍できる社会づくりに貢献し、社会に多大な便益をもたらすことが期待されている。

と、AI技術に対する期待を述べる一方で、

知らぬ間に普及し高度化し社会の在り方に根本的影響を与える可能性もあり、健全な利用のためにその影響を検討する必要がある。 

と続け、AIが社会へ与える影響に対して事前に検討することの必要性を述べています。


この報告書では、検討を必要とする論点として
倫理的論点・法的論点・経済的論点・教育的論点・社会的論点・研究開発論点
の6つを挙げています。

 

以下では、それぞれの論点について、報告書の中で太字で強調された部分を引用することで紹介したいと思います。


倫理的論点

  • 人工知能技術の進展に伴って生じる、人と人工知能技術・機械の関係性の変化と倫理観の変化
  • 人工知能技術によって知らぬ間に感情や信条、行動が操作されたり、順位づけ・選別さられたりする可能性への懸念
  • 能力や感情を含む人間観の捉え直し
  • 人工知能技術が関与する行為・創造に対する価値・評価の受容性。価値観や捉え方の多様性

法的論点

  • 人工知能技術による事故等の責任分配の明確化と保険の整備。人工知能技術を使うリスク、使わないリスクの考慮
  • 個人情報とプライバシーの保護も含めたビッグデータ利活用
  • 人工知能技術を活用した創作物等の権利の検討
  • 法解釈、法改正、法に関連する基本的概念の再検討の可能性

経済的論点

  • 人工知能技術による業務や働き方の変化:個人対象
  • 人工知能技術の利活用による雇用と企業の変化:企業対象
  • 人工知能技術の利活用を促進するための経済政策、労働移動を可能とする教育政策・雇用政策:国対象

教育的論点

  • 人工知能技術を適切に利活用するための教育
  • 人にとって本質的な能力や人にしかできない能力の育成

社会的論点

  • 人工知能技術との関わりの自由と共有可能な価値についての対話
  • 人工知能技術によるデバイド、社会的コストの不均衡、差別への対処
  • 新たな社会的病理の可能性、対立、依存への対処

研究開発論点

  • 倫理観、アカウンタビリティ、可視化
  • セキュリティ確保、プライバシー保護、制御可能性、透明性
  • 人工知能技術に関する適切な情報伝達と人文社会科学研究、融合研究の必要性
  • 人工知能技術の多様性確保と多様な社会への対応


報告書内では、それぞれについて想像される問題点などが個別具体的に書かれていて参考になります。

 

そして最後は次の一文でまとめられています。

人工知能技術を利用する人も研究開発者も、政府機関や民聞企業、教育関係者も、全ての人がこの懇談会で得られた論点や提言について自らのこととして受け止め、私たちの未来社会をより良いものとするために具体的な議論を続け、適切な行動を取ることを期待する。

 

報告書のExecutive Summaryは2ページのみ。それを入れても全体で19ページ程度にまとめられた報告書なので、目を通してみてはいかがでしょうか。

 

「人工知能と人間社会に関する懇談会 報告書」

http://www8.cao.go.jp/cstp/tyousakai/ai/summary/aisociety_jp.pdf

共同研究と、「折り紙は高くつく」という話

今日は遠方よりお越しいただいた企業さまと、共同研究について話をさせていただきました。

大学の台所事情が厳しい昨今、企業との共同研究による研究予算の獲得が、これまでにも増して重要となってきています。

アメリカの大学では、数億円と言う単位で企業からの研究費を受け入れるケースが多々見られる、という話を聞きますが、日本ではまだまだ、そのような事例は少ないです。

(数億円と言う単位になるときは、個人ではなくて組織として受け入れる場合が多いようです。日本では、大阪大学と中外製薬の包括連携契約締結(10年間で100億円)が話題になりました)

 

私自身、いろいろな企業さまからのコンタクトをいただくのですが、そこには、なかなか一筋縄ではいかない課題があったりもします。

今日はそのことについて書いてみたいと思います。

 

まず、大学での研究と言うのは、(少なくとも私のところでは)学生が主体的になって手を動かして研究をします。とくに私の所属する筑波大学コンピュータサイエンス専攻ではソフトウェアの研究開発がメインですから、企業様からも、製品開発に役に立つソフトウェアの提供を期待されることが多いです。

しかしながら、「わが社はこういうソフトウェアが欲しい」という要望があって、それに対して、「では開発しましょう」というのでは、民間のソフトウェア会社と変わらないことになってしまいます。

大学で共同研究という形で引き受けるからには、今までにないチャレンジングなものでないと、研究として取り組む意味がなくなってしまいます。

それでは、ということで難しいテーマをご提案いただくと、今度は責任をもって実現できる保証が持てない、という申し訳ない状況になってしまいます。実際に手を動かして開発を行うのは研究室に所属している学生なので、ますます私の口から「できます」という約束が難しくなります。学生は決してプログラム開発の専門家ではなく、また個人によって能力が大きく異なります。たとえ優秀な学生であっても1年、または2年か3年で卒業していくことになります。

企業が社内で挑戦するよりも、大学生(大学院生)に挑戦してもらった方がよさそうなテーマ(CGや折り紙に関するもの)、というものが、ちょうど見つかるといいのですが、それはそう簡単なことではありません。

 

ところで、私自身は折り紙の研究をしていますので、折り紙の技術を活用したい、という問い合わせも多くいただきます。大変ありがたいことですが、でも、残念ながら共同研究契約まで行くことは少ないです。 

よくあるすれ違いは、折り紙の技術に対して過大な期待を持たれてしまっているケースです。「わが社の製品をコンパクトに折りたたむ方法を考えて欲しい」「この製品を折り紙で安価に作れるようにしたい」、それ以外にも、折り紙の技術を魔法のように期待されるケースが多く、「それは難しいです」と答えざるを得ない場合が少なくありません。

とくに「折り紙は安い」と考えて、コストダウンにつながることを期待される方が多いですが、実は折り紙はとても高くつく技術です。

ここは大事なので、もう一度書きます。折り紙は高くつく技術です。

直方体のシンプルな箱でさえも、人が手で折って組み立てることが多いので、ましてや少し複雑な折りを含むものになると、必ず1つずつ時間をかけて折る作業が発生します。数十円単位でコストを考えないといけないものには、「折る」という工程は割に合わないのです。

お話を伺うと「それはプラスチックの射出成型の方がよいのでは」というものも多く、最終的にはお断りすることになってしまいます。

 

折り紙の技術(とくに私が行っている折り紙デザインの技術)と相性のよいものは、1つ1つの単価が上がってもよいような、意匠性を重視したもの、ということになるでしょう。

ISSAY MIYAKEとの共同研究では、意匠性に優れたデザインの服(132 5シリーズ)の立ち上げに関わらせていただきました。また、共同研究の事例ではないですが、下の写真のように、子供たちが靴を脱いで上がれる大きなオブジェに折り紙のデザインを活用いただいたことがあります(写真右提供:磯崎新+胡倩工作室)。これは、上海の高島屋の絵本館においていただいているもので、中にウレタンが入っていますが、不要な時にはカバー部分を外して巻き取って収納できます。

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このように、うまくいった事例の方が少ないのが実情ですが、折り紙の特性を活かした新しい提案ができればと願っています。

 

本日、お越しいただいた企業さまは、このようなことを十分に説明しましたが、それを理解くださったうえで、それでもぜひ、と共同研究のお申し出をくださいました。

「研究」ですので、うまくいくか不透明なところがありますが、お役に立てるよう頑張って行きたいと思います。

 

読書の記録「サピエンス全史」

最近話題になっている、サピエンス全史(ユヴァル・ノア・ハラリ著)を上下巻セットで購入して、この週末に読んでいました。

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福

 

これはまたスケールの大きな内容で、久しぶりに心拍が早くなるような気持ちでページを繰ることになった書籍でした。

ホモ・サピエンスの登場前から現代にいたるまでの、人類の歴史を見事に書ききった大著と言えます。

日ごろの通勤時間などに、宗教や経済の実体とはなんであろうか、というような哲学的なことをぼんやり考えるときには、頭の中にモヤモヤした霧がかかっているような感じがするのですが、「それはすべて虚構である」と言う言葉で、一切合切ぜんぶ吹き飛ばしてしまうような明瞭な書きっぷりで、そのような物の見方ができるのだ、という感心とともに、それが正しいと思わせるような説得力のある構成に、唸らさせられました。

神などいないとする本書の主張と、まったく矛盾するようですが、この本を読むことで、まるで神の視点に立ったかのようにして、何十億人といういう人類が存在する現代社会がなぜ、どのようにして成り立っているかを俯瞰できる爽快感があります。

また、その一方で、本書が主張する「我々の世界は他の皆が信じているものを信じることで成り立っているものであり、それは何も実体のない虚構である」、という考えを受け入れることは、今現在の我々が拠って立つところの価値観の正当性を根底から揺さぶられるようで、不安な気持ちにもさせられます。

あらゆる宗教が隠し続けてきた、言ってはならない禁断の考えを、これでもかと書き綴ったものであり、この本を読むことで頭を抱え込んでしまうことになる人も多いのではないかと思います。

私自身は、宗教は大規模な共同体を維持するための創作物だという考えに対する反発は感じないものの、近代科学や資本主義、家族や国家のありかた、そして人権までも含めて、現在どっぷり浸かっていて否定することすら考える機会が乏しいこれら価値観すべてが、どれもこれも虚構である、と考えると、やはり心穏やかではなくなってしまいます。

著者が最後に書く、「私たちは何になりたいのか?」という問い、そして「私たちは何を望みたいのか?」という問いは私には重すぎる問いであるように感じました。

 

というように、久しぶりに哲学的な思索にふけりながら、そして、これは虚構なんだろうと思いながら、今日もネクタイを締めてスーツを着ての出勤をしてきたところです。

 

正確な記述は忘れてしまいましたが、「矛盾した世界観を同時に持つことができるのも、サピエンスの優れた能力である」というような内容も書かれていました。

まさに、だからこそ、虚構に満ちた現実と頭の中で想像する理想の社会との断絶にも折り合いをつけながら生きていけるのかもしれません。

 

久しぶりに、現実の問題が些末なことに思えてしまうようなスケールの大きな本でした。多くの人にもお勧めしたいですが、でも、あまりのめりこんでしまうと、虚無感に苛まれることになるかもしれません。

 

 

ちなみに、日本での初版発行後5か月で20刷りということで、すごい発行部数であることは間違いなく、英語版の原著「Sapiens: A Brief History of Humankind」は、Amazon.comで2800以上のレビューコメントがつき、平均評価が星4つ以上と、大変な評判になっているようです。

宗教を信じ、進化論を否定し、人種問題などを抱える国の人たちが、この本をどのように読んだかは気になるところです。

短編ドラマ「オリガミの魔女と博士の四角い時間」の紹介

先月に、NHKのEテレにて「オリガミの魔女と博士の四角い時間」という短編ドラマが、各回15分で全4話放映されました。

www4.nhk.or.jp

 

折り紙の設計と創作をメインに据えた内容でありながら、子供と大人が一緒になって楽しめる優れた番組でした。

 

土曜日の深夜24時からという時間帯だったので、多くの人は観ていなかったと思いますが、嬉しいことに4月29日(土)の午後10時45分から再放送されるようです。

ぜひ多くの方に観てもらいたいと思い、ここで簡単な紹介を書いてみます。

 

番組では毎回、いたずら好きの魔女からオリガミ博士に対して、「○○を折ってごらんなさい」と、お題が出されます。

 

オリガミ博士は、それに応じるために頭をひねって、どのように紙を折るべきか考えます。

 

多くの人が想像するであろう、紙を折りながらの試行錯誤と違って、「ペンで展開図を描く」という、まさに「折紙設計」のアプローチが前面に出された構成となっています。

 

折り紙作品の多くは、適当な折り方で生まれるのではなくて、構造を理論的に考えたり、ときには計算によって作り出されるのです。

折り紙の研究に携わっている立場からは、まさに「こういうところを紹介して欲しかった」と思うような演出でした。

もちろん、おとぎ話風のフィクションですから、どれもこれも正確に表現されている、というわけではなかったですが、手抜きの無い作りこまれた内容になっていました。さすがNHKの番組だけあると思います。

 

第1話では、「悪魔」を創作した前川淳さんが直々に登場し、トカゲを例に折り紙設計の考え方を紹介しました。

前川淳さんは、折紙設計の第一人者で、現役で活躍中の折り紙作家です。

番組の中では、前川さんの著書「本格折り紙」に登場する作品が多数登場しました。

 

本格折り紙―入門から上級まで

番組の舞台となる山小屋の中には、前川さんの作品があちこちに並べられていて、前川さんのファンにはたまりません。

 

番組のWebページには、番組に登場した作品の折り方が紹介されていて、パピヨン、流れ星、カワサキローズ、変形折鶴を折ることができます。あと、どういうわけかツル星人も(^^

www.nhk.or.jp

 

どれも「鶴」よりかなり難易度の高いものばかりなので、かなり本腰を入れて作らないと、うまくできないと思います。がんばりましょう!

 

ちなみに、 オリヅル博士の

「折るというただそれだけの行為が紙に命を吹き込む、やがて紙は自らの力で立体に立ち上がる」
というセリフがとてもカッコよく印象的です。

 

 余談ですが、前川淳さんのファンには、もっとも新しい著書、「折る幾何学」がおススメです。 

折る幾何学 約60のちょっと変わった折り紙

折る幾何学 約60のちょっと変わった折り紙

 

 

さらにさらに余談になりますが、前川さんの「折る幾何学」について私が書いた書評が数学セミナー5月号に掲載される予定です。立ち読みで結構ですので、見ていただければ。

数学セミナー 2017年 05 月号 [雑誌]

太平洋側から地球を眺めると海ばかりしか見えないという話(2)

前回のエントリ

太平洋側から地球を眺めると海ばかりしか見えないという話 - みたにっき@はてな

で、

「見渡す限り海しか見えない、地球表面から最も離れた場所はどこか」

という問題を考えたら面白のではないかと思ったので、考えてみました。

 

つまり、下の図が地球の断面だとすると、青い点から見えるのは赤い線で表された範囲に限定されます( GeoGebra というソフトウェアを使って図を作っています)。

図が示すように、視点が地球表面に近づくほど見える範囲は狭くなります。

 

f:id:JunMitani:20170408212527p:plain

 

無限遠方からはちょうど地球の半分が見え、地表の近くでは、ごく狭い範囲しか見えないわけです。

 

とこころで陸地から最も遠い点は、到達不能極、またはネモ ポイントと呼ぶそうで、Wikipediaによると、下図の位置だそうです。

f:id:JunMitani:20170408213245p:plain

このネモポイントの上空から次第に地球表面に近づいていくと、どこかのタイミングで、海しか見えなくなるということ。

 

このネモポイントから、最も近い陸地までの距離は2688kmだそうです。

 ということは、下の図の赤色の線を2688kmとし、円の半径を6387km(地球の半径)として、緑の線の色の長さを求めると、「地球表面から最も離れた海しか見えない点」の位置がわかることになります。

 

f:id:JunMitani:20170408214324p:plain

弧BEの長さをl(=2688)、ABの長さをR(=6387)とすると、∠BAC=θ=l/R

EC=AD+DC-AE=Rcosθ+Rtanθsinθ-R≒612km

したがって、ネモ ポイントでは上空612km以下では陸地が見えないことになります。

 

ちなみに、国際宇宙ステーションは上空400kmを飛んでいるそうで、ネモポイント周辺では、海しか見えないということになりそうです。

 

ということで、Twitterのツイートから始まった一連の考察から、以上のことが導き出されたわけでした。

 

少し考えればわかるような、ちょっとした話だけど、こんな風にして、ぷち研究が進むのは楽しいと思います。

参考までにこれまでの流れをまとめてみると、次のような感じです。

 

子供の読んでいる読売KODOMO新聞に、「太平洋側から眺めると海ばかりしか見えない場所がある」という小さな記事を面白いと思う。


Google Earth で確認してみると、確かにそのような感じがする。

海の割合が最も大きい半球を「水半球」と呼ぶことをTwitter経由で教えてもらう。

Wikipedia で確認してみると、Google Earth の様子とだいぶ違う。

3Dソフトで投影方法を変えて確認してみると、視野角と視点の位置によってだいぶ異なる。

「ほとんど海」ではなくて「完全に海だけ」しか見えない場所があるはず。その境目はどこだろうかと気になる。

(陸地から最も離れた海上の点を到達不能極、または、ネモ ポイント と呼ぶことを Twitter 経由で教えてもらう。)

上記のようにして解いてみたところ、ネモ ポイントの上空600km程度までは海しか見えないことがわかる。

Twitter経由で同等の答えが出されていることを確認。さらに、上空600kmというのは、国際宇宙ステーションは地表から400kmくらいの場所を回っていることから、国際宇宙ステーションがネモポイント上空を通るときには、海しか見えないということがわかる。

 

ということでした。

関連ツイートは次の通りです。